2011年もあとわずか。
今年を一文字で表すならば、
『守』
だったかもしれない。
1つ目。
去年生まれたそっちの存在は色々な意味でより大きくなった。
1月に育休から復帰し、子育てと仕事の両立の大変さに苦労した。
特に11月以降は育児時間もなくなり、平日は時間との闘いだった。
私が秋口ぐらいから体調が悪くなったのは大きい。
ちょうど育児時間が終わった時期とも重なり、なおさら心身ともに余裕がなくなった。
自分の体が自分ではなくなってしまっている状態が、日常生活に支障を来している。
主人には申し訳ないが、なかなか分かってもらえないことに苛立ちを覚え、口喧嘩も絶えなかった。
早く体調が良くなってくれることを願うばかりである。
平日はとにかくそっちのことを優先し、そっちとの時間をいかに確保するかが私にとって大きな課題だった。
そして、同時に食事の用意をどうするかも重要だった。
よって、以前からの習慣であったおかずストックは合理的で、休日の調理が我が家の食事の勝負になった。
平日になかなかやれない掃除、買い物をすると、休日はあっという間に過ぎていく。
正直、休日は家族以外の人とあまり会いたくないというのが本音。
気分転換よりも自分の体を休息させなければ翌週に響いてしまう。
共稼ぎの私たちにとって主人の協力は絶対必要不可欠であった。
主人は去年より口も悪くなったが、、、しかし子育ては二人でやりたい、行事は家族三人でという私の考えを尊重し、文句を言いながらも頑張ってくれた。
ありがとう。
2つ目。
誰しもがそうであるように、今年は3月11日の大震災が何といっても忘れられない出来事だった。
一言では言えないし、文才がないため何を書いても陳腐なものになってしまう。
私は大学院時代、戦後日本史を勉強していて、「戦争未亡人」について研究していた。
「戦争未亡人」に聞き取り調査をした時、
「生きるのに、食べるのに必死だった」と言っていたのが忘れられない。
今回の大震災は戦後最大の惨事だと私は思うし、来年度の社会の教科書には間違いなく太字で載る出来事であろう。
あの揺れはひどかった。
そして、津波の余波を体験した者としてやはり津波は怖いものである。
しかし、地震後の方が大変だった。
あの地震を経験した私はまさに、あの日からしばらくは生きるのに食べるのに必死だった。
配給をもらうため、電話をかけるために並んだこと、避難したところで雑魚寝をし不安に思ったこと、一生忘れられない。
宮城に住んでいるからこそ、悲しい光景を見るたびに、自分もそうであったかもしれないという気持ちがよぎる。
今は津波の映像を観るのも正直嫌である。
生きている我が命、主人、息子が無事であることに感謝する。
当たり前のことがいかに幸せなことか思い知らされた。
人間として未熟な分、この震災をきっかけにしてさまざまなことに気づかされた。
そして、被害が少ない地域にたまたま住んでいたからこそ、復興に向けて早く前に進んでいかなければならないと思った。
それは、日々の買い物をするなかで経済を動かすこともしかり、気持ちをそう思うこともしかり、自分ができることをやることが大切なのだ。
被害が多かった地域やそこに住む人たちの気持ちに寄り添い考えて、復興することを願うばかりである。
子育てに奮闘し、そっちを守り、自分たちの生活を守ることに必死だった2011年。
しかし、家族、友人に支えられ頑張ってこられた。
ありがとう。
来年は2012年。
来年に向けて、今年は前進したこともあった。
私たち夫婦にとって来年は大きな楽しみな出来事が2つ待ち受けている。
今まで通り、夫婦でじっくり話し合い、協力し、新たなステージを楽しみたい。
私にとって主人は何ものにも代えがたい愛すべき人だから。
色々なことがあった2011年。
人類は明るい未来を紡ぐために歴史を刻んでいる。
あの震災の生き証人だからこそ、そっちら次世代に伝えていく必要があるし、彼らの将来のためにも前を向いて歩いていかなければならない。
きっと今年が明るい未来へつながる年だと信じて、来年も精一杯生きたい。
ありがとう2011年。
0 件のコメント:
コメントを投稿